2018年10月3日水曜日

訃報、Jerry Gonzalez 氏逝く! !

昨晩深夜に帰宅、前夜の台風の暴風で眠れなかったこともあってか、演奏後にしては随分身体が疲れているなと思っていると、FBでJerry Gonzalez氏の訃報を知って一気にぐったり。ライヴの記事をアップするも、心穏やかではいられずなかなか眠れなかった。

今朝目が覚めても、この事がすぐに頭をよぎってなんだか呆然と一日を過ごしてしまった感じ。既に多くのミュージシャン仲間がこの訃報をアップしているのだが、N.Y.でのいろんな想い出が走馬灯のごとく今も頭の中を駆け巡っている。以下はその想い出話なので、興味の無い方スルーして下さい。

彼と親交の深かった日本のミュージシャンも多いと思うが、それはもう30年以上前の事。まだ彼のFort Apache Band が大編成だった頃の話、84〜85年にかけて僕は半年程N.Y.に滞在していて、この間、何度彼の家に通ったことだろう?「ヘイ、ミーチャ(僕の事をそう 呼んでいた)、いつでもいいから電話して遊びに来いよ」とこれは毎回別れ際の挨拶。

僕は夕方から寿司バーでバイトしていたので、電話して昼過ぎに遊びに行くことが多かったが、必ず手みやげにハイネケン半ダースと新品のカセットテープ一本 持っていく。ゆったりと音楽談義から始まって、ルームメイトのコレクションでもある多分一万枚以上はあるだろうレコードを、次から次へとかけてそれを一緒 に聴いているだけの時間でもあるのだが、例えば「今日はモンゴ・サンタマリアを聴こうか」と言って、およそ自分の知らないモンゴの古〜いレコードから年代 を追って順々にその名演を聴かせてくれる、しかも一曲づつ持って行ったカセットテープに録音しながら、そのエピソードを話してくれるのだ。で、帰りが けに「Jerry Collects Mongo Santamaria」のベスト盤となったテープを持たされるという具合。そのテープが今でも手元に何本もあるが、全て僕の宝物である。まる で"Jerry Latin Jazz Music 塾"とでも言おうか、持って行くハイネケンは授業料?カセットテープは教材?という感じだった。しかしラテンよりもジャズを聴いていた時間の方が多くて、 サルサのミュージシャンでこれだけジャズを知っている(聴いている)人はいるのだろうかと思ったもの。

ギグがある時は楽器運びの手伝いもしたし、今想うとN.Y.滞在中一番一緒にいた時間が長いミュージシャンだったのかな。よく「Conjunto Libre で演奏するのは楽しいけれど、クラブに出演するのに何でおそろいのスーツを来て演奏しなきゃならないんだ?」と愚痴ってみたり、他のサルサミュージシャン とは一線を画す存在で、それを怖いと感じる人もいたようだが、僕ら日本人のミュージシャンには隔てなく接してくれて、とにかく自由で懐が広い人という印 象。たまに家に遊びに行って帰りが深夜になると、「この辺(ブロンクス、ヤンキースタジアム付近)、夜は物騒だがら…」と地下鉄駅まで送ってくれたり、はたして自分は他人とこんなに大らかに優しく付き合えるんだろうか?と思わされたものである。

当時の写真をひっくり返すと、いつも一対一で会っていたせいかツーショットの写真は見
つからなかったが、この写真はクリスマス近く、Jerryの家に居る とそこへベースのJoe Santiago氏が遊びに来て、ちょっと音出そうぜ!となったワンシーン! 確かクリフォード・ブラウンの曲ばかり演奏したかな。(背中から自分が緊張している様子が伺える)

2005年だったか、Fort Apache Bandでブルーノート東京に来日した際に新宿のホテルの部屋を訪れると、いつもこれを持って歩いているのか?と思うほどのスピーカシステムが部屋にあっ て、まるで彼の家のリビングに居るかのごとく、持って来たCDを片っ端から聴かせてくれたっけなぁ。これが彼に会う最後の機会だったんだが。

その後スペインに活動拠点を移してからは新しいCDを聴くくらいで、すっかりご無沙汰していた。新しい映像を探したのだがこれは2014年のもの。さすがに歳を重ねた感じが伺えるが、スペインでの活躍を垣間見る事ができる。フラメンコシーンとも交流があったはずだが、やはりスペインでも彼流のラテンジャズ に尽きたんだな。
https://www.youtube.com/watch…
とにかく長く会っていなかったので、突然の訃報に驚くばかり。ひたすら冥福を祈るのみだが、いまだ信じられない…。

2 件のコメント:

  1. 昨晩はya yo me cureを聞いていた。



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    1. ya yo me cure、アナログ盤探してるんだけどみつからない〜(汗)!

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