2013年7月29日月曜日

ツアー終了

週末土曜日、日曜日と渋谷オーチャードホールにて綾戸さんのデビュー15周年記念ツアーの締めくくりとなるライヴ。両日ともクワイアの参加もあり、内容も濃く充実したライヴとなった。

これは内輪話だが、通常ツアーの仕事の場合、1〜2週間のリハーサルをして曲のアレンジ、曲順やステージの構成、楽器の管理、スタッフとの連携等々を詰めてロードに出るのだが、綾戸さんの現場は全く違うやり方。驚くことなかれ、綾戸さんのステージはこのツアーのためのリハーサルを全くやらないのである。今回初日は5月の札幌公演だったが、メンバーが顔を合わせるのも当日で、それもライヴでは半年ぶりくらい。およその曲順を前もってメールで知らされる程度。リハーサルは本番当日、公演前にしかやらない。

というのも、2月に行ったレコーディングでおよそ音作りは詰めてあるので、皆それぞれのパートは覚えていて、ライヴ当日、構成など曲ごとに復習って決めるだけ。以前からのお馴染みの曲もあるので、およそ20曲程度の内容もさほど時間をかけずにリハーサルする。バンドのみならずスタッフもこのやり方にもう慣れているので、照明、音響とあっという間にステージを作っていく。こういったやり方はジャズの現場にはわりとありがちだが、綾戸さんの歌う曲にジャズのスタンダードはごくわずか。決してインプロヴィゼーションに集中するという内容ではないので、さすがに初日は緊張するが、この緊張感がかえって演奏に対する集中力を高め、ちょっとしたミスもそれをどう切り返すかで新たな展開がひらけたりして、メンバーもそれを楽しんでいる部分さえあるのだ。

綾戸さんはよくステージで「昨日の演奏は今日のライヴの為のリハーサル、そして今日の演奏は明日のためのリハーサルです」と堂々とお客さんに向けて話す。ちょっと冗談まじりなこのセリフ、なかなか真をついていて、今日の演奏にベストを尽くさずして、明日の演奏がグレードアップすることはないだろうと。なので初日の札幌公演も、千秋楽のライヴでもベストを尽くして演奏しているという事に変わりはない。しかしツアーとなると短い期間に演奏する機会が増えるので、徐々に阿吽の呼吸というのかステージ全体がまとまってくるのは確か。まあそれがツアーの醍醐味というもの。

昨日のツアーファイナルの様子は8月25日にWOWWOWにて放映される。僕自身、今回のツアーはどの公演を放映されても構わないなぁ、と思うくらい楽しみながら集中できた。特に選曲、構成がよく、誰が見ても楽しめる内容だったのではないだろうか。それでいて毎公演新鮮な気持ちでライヴに挑めたのは、やはり「リハーサルをやらない」という手法が効いているのかもしれない。

2013年7月27日土曜日

R.I.P Steve Berrios

昨日、パーカッション・マガジンの記事を書いたばかりというのに、こんな訃報が舞い込んで来た。

そう、僕の師匠”Steve Berrios”(ステェーヴ・ベリオス)氏が亡くなった。まだ詳細は全くわからないのだが・・・。

前述の記事でLP社から届いたレコードから、ベーシックなテクニックを学んだわけだが、丁度その頃、79年だったか?ラテンキング「ティト・プエンテ」がN.Y.からコンボを率いて来日、それまでちょっとは理解したつもりだったラテンリズム。ところが彼等の演奏を目の当たりにして僕はぶっ飛んでしまった。今までに見た事も聴いた事もないアンサンブルとグルーヴ、自分がそれまでに体験した音楽には全く無い興奮を覚え、身も心も震えたのを今でも覚えている。

当時すでにプロとして仕事をしていたのだが、あの感覚はN.Y.へ行かなきゃ分かるまいと気がつけば翌年にN.Y. へと渡り、根本からラテン楽器を勉強し直そうとレクチャーの窓口を探して最初に出会ったのがスティーヴ・ベリオス氏であった。彼は僕が最初に手に入れたSalsaのレコード、ヘクトル・ラボーの「コメディア」という名盤でティンバレスを叩いていた人。日本ではあまり知られていなかったが、当時モンゴ・サンタマリアのバンドメンバーで、ドラムセットからディーブなアフロキューバンのパーカッションまでこなすマルチ・プレイヤーだった。

その温厚な人柄に加え、まだまだラテン音楽の右、左も分からぬ僕に丁寧にその実践的基礎を教えてくれた人である。それはレコードで勉強しただけでは分からないリズムの空間を一緒に感じさせてくれ、彼のレクチャーを受けて色々なリズムアンサンブルを覚えることができた。彼はもともとトランペット奏者で、自信のソロアルバムでその演奏を聴くこともできるが、なんと言っても個性的でテイスティー、かつグルーヴィなドラミングがたまらなく魅力的だった。

その後、彼がブルーノートに演奏に来たり、僕がN.Y.へ演奏に行ったりする機会には必ず会って飲みに出かけたものである。しかしこの数年、お互い会う機会もなく、この急な訃報にただただ驚いている次第。何があったのかは次第に分かることだろうが、いまはただご冥福を祈るばかりである。

Rest In Peace Steve!!

2013年7月26日金曜日

パーカッション・マガジン 2013

先日、フォトセッションというタイトルでブログにアップした内容がついに本になって出来上がってきた。「パーカッション・マガジン」はリットーミュージック社から出版されているリズム&ドラム・マガジンの別冊で、これまでに6巻が出版されているが、この号がなんと3年ぶりの出版となる。表紙は自分をデフォルメしたイラストか?

以前のパーカッション・マガジンでも「Cajon (カホン)」という楽器の特集で楽器のインプレをしたり、取材を受けたりして記事に取り上げていただいたが、今回またも「カホン」特集、しかも24ページにもわたる企画という。編集部から依頼を受けた時思わず「僕はカホンの専門家じゃないし、自己流でやってるんだけど、ホントに僕でいいの?」と聞き返してしまった。

じゃ、あなたは何のスペシャリスト?と聞かれれば、『?・・・』。ラテン音楽はいっぱい勉強もしたけれど、普段ラテンバンドはやってないし、ジャズもポップスも大好きだし、まあ日本においてパーカッショニストとは「何でも屋」としてどんな音楽にもフィットしたプレーができてこそプロフェッショナルというところがあって、気がつけば自分自身それを信条としていたり・・・。なので今回も自分流を打ち出して、多くの人にカホンという楽器に触れてみてもらおうと取材に応じたのであった。

自分が楽器を始めたころ、まだラテン楽器のノウハウに関する情報など全然無くて、楽器メーカーLP社(ラテンパーカッション社)から教則本付きレコードが出ていたくらい。しかも日本では手に入らない。当時はドルの両替もままならない時代、貿易会社に勤めていた姉に頼んで現金$100を手に入れ、つたない英文を綴った手紙に$100札を忍ばせて、LP社に直接、内心「送ってくれるはすないよな~」とダメもとで藁をも掴む思いでこのレコードをオーダー。

すると2ヶ月程してから米国から船便の荷物が届いた。他に心当たりなど無いのですぐさま段ボールを開けてみれば、教則シリーズ2枚、ソロ練習シリーズ3枚のレコード、計5枚が入っていて、そこにLP社社長の息子さん(後にそれが分かったのだが)から手書きの手紙が入っていて、遠く日本からオーダーしたことへの感謝の言葉と、頑張って練習してくださいという主旨の内容が記されていたのだった。その後毎日そのレコードを貪るように聞きまくり、ラテンリズムのペースをなんとか理解したのである。ん~、いい話だなぁ。(笑)

今の時代はネットが普及して、Youtube を覗けば楽器のテクニックもベーシックから巧みなプレーまでいくらでも見て聴くことができる。若いプレーヤーはそうやってテクニックを勉強しているみたいだが、自分にとって本当に必要な情報を選りすぐり、自分のイメージを膨らます事が逆に難しい時代。今回のパーカッション・マガジン(CD付き)の企画を見て、聴いて、音楽を志す若者になにかしらイメージしてもらえたら嬉しい限り。最近になってやっと、若い世代に自分が体得してきた音楽のやりかたを伝えたいと素直に思うようになった。だから自然とこういう企画が舞い込んで来たのかも知れない。

2013年7月24日水曜日

Cinco de Pan? シンコデパン? 新粉でパン!!

今年の小麦の収穫は30坪の作付けに対して20kgちょっとだった。土壌の質が上がれば同じ面積で30kgの収穫も可能だと思われるが、まあ収穫量を計画的にコントロールできるほど上手に栽培できるとも思わないし、それほど真面目にやっていないとういのも事実。ただ、効率よく収穫できれば手間も省けるし、その分時間も節約できるという訳である。

房総には小麦の製粉所が無いのでいつも通り世田谷にある島田製粉所に製粉をお願いした。製粉の行程はまず玄麦をすり潰しふすまと粉に分ける。このふすまと粉を篩い(ふるい)にかけて粉のみを分別する。最初に製粉をお願いしたとき、製粉機の構造を見せてもらったのだが、この製粉機の篩いは絹の布でできており特にきめの細かい粉が出来上がる。玄麦の60~70%が小麦粉となり、我が家では一年間で丁度このくらい(12〜15kg)の量を使いきる。

新粉ニシノカオリ100%で焼いたパン
 今年も「ニシノカオリ」という品種を育てた。この品種は強力粉になる国産の小麦で、特にパンに向いているという。今年で3年目、以前作っていた農林61号よりもパン向けと言われるが、やはり国産の小麦でパンを焼いてもさほど膨らまない。我が家では天然酵母を使って、パナソニックのホームベーカリー一斤タイプを使って焼く。ニシノカオリ100%では小さな食パンにしかならないが、焼きたてはもっちりとして香りが良く、トーストするとカリッとしてなんとも美味しい。普段は膨らみを大きくするため外国産オーガニックの強力粉を30%ほど混ぜて焼く事が多い。シンコデパン(新粉でパン)は意味も無く、ただスペイン語的語呂合わせ。

しかしこのニシノカオリ、作る手間や時間を考えたら買った方がずっと安い。自分のやり方は究極のスローフードというところ、有機無農薬はもちろんのこと畑を耕すことに始まり、種まき、草取り、刈り取り、脱穀も全て自分の手で行う。目の前の畑で出来上がるその過程を見ることで季節の移ろいを感じ、それを食してこそまた格別な充実感があるというもの。主食になるものを自家栽培するエネルギーは、自分の生命力を映し出している感覚と言っていいだろうか。音楽同様、小麦は自分のひとつの作品でもある。

2013年7月23日火曜日

ツールドフランス終了

今年のツールドフランスが終わった。100回記念のレースということでJ-sportsの番組でもちょっと趣向を凝らした内容もあったが、所詮レースは選手が主役であって、選手がドラマを作り出すのはいつもと変わらない。レースの3週間は長いようでいてあっという間に過ぎてしまう、自分的にはその間に祭があったりと慌ただしい時期でもあったが。しかしいつもツールが終わるとポッカリ心に穴があいたようになってしまう。

振り返ってみて、今年のツールは面白かったか?というと個人的にはビミョー。というのは目当ての選手の活躍がイマイチだったり、優勝者と2位とのタイム差が大きかったりと、見る側の勝手な思い込みと食い違う展開となればそれもそのはず。しかし選手たちにすれば3週間のサバイバルレース、その過酷な状況を察して見れば、大きな見所はいくつもあったし、やはり見応えのあるレースである。そして3週間TVを通して映し出されたフランス国内の風景はとても美しく、100回記念ということでゴール地点、パリのシャンゼリゼ通りに選手達がなだれ込んで来るのが日暮れ時に設定され、表彰式は美しくライトアップされた凱旋門をバックに行われた。(写真)

レース本編とは別に、レースの100年の歴史を振り返るフランスのTV特番が2時間ほど放映されたのだが、これにはちょっとビックリした。僕がツールを見出したのが80年代に入ってからで、かれこれ30年程前の話。当時はNHK BSで放送され、グレック・レモンがアメリカ人として初めてツールの覇者となった頃。それ以来常にドーピング問題が取りざたされてきて、1999年から7連覇したランス・アームストロングのキャリアが剥奪されたのはついこないだのこと。

ところがツールの歴史を振り返れば、自転車競技そのものの性質が時代を追って大きく変わってきたことがわかる。20世紀初頭は命がけで賞金をとるためのデスゲーム的見世物だったり、ナショナリズムを強く反映して、スポーツでの戦争という様相さえうかがえるのである。さながら選手はその為に当たり前に薬剤を使って戦う兵士といったところ。こういった認識でレースを観戦しているヨーロッパの人達にすれば、ドーピングに関して果たしてどれだけ問題意識があるのだろうか。

しかし自転車競技はあくまでスポーツに他ならない。オリンピック競技にまでなっているのにいつまでドーピング問題を引きずるのか、レースというショーを見ている者にとって、応援していた選手がドーピングでキャリア剥奪となれば興醒めである。そういった意味で今回のツールはかなりクリーンなレースだったのではないだろうか?選手達も新世代へとシーンが変わりゆくことを予感させてくれるレースでもあった。

2013年7月22日月曜日

はやしの口開け

千倉町は南へ行くほど砂地の海岸は少なく、房総半島南端の白浜町あたりまでずっと岩場が広がっている。

この岩場がアワビ、サザエ、伊勢エビの格好の漁場となっており、古くは江戸時代から素潜り漁が盛んに続いてきた。いやもっと古くから行われていたに違いない。この地では、漁師といっても船で魚を獲る漁をする人と、素潜りでアワビ、サザエ、ウニ等の漁をする海士(アマ)と呼ばれる人がいる。アワビは浜値も高価にやりとりされるため、海士の仕事は大きな収入源となる。我が区ではその計画的な水揚げのために、アワビの稚貝を養殖、放流して安定した漁場を作っている。





その中で、普段からアワビを保護するため漁が禁止されている場所があり、そこを皆「はやし」と呼ぶ。この「はやし」を年に一度だけ漁協の組合員に解放する日がある。これが「はやしの口開け」である。気候の安定する梅雨明け時分、大潮の日をメドに行われる。今日がその日となった。区の組合員全てが専業の漁師と限らず普段は普通に仕事をしている訳だが、みなこの口開けの日に休みをとってまで参加する一大行事である。1〜2週間前からおよそのスケジュールが告げられるようで、海士さんたちはその頃からソワソワしはじめる。というのも、解放される時間は午前中3時間程だが、プロではない海士でも数十キロの水揚げをするアワビ獲りの名人もいて、海況次第では時期が大きくずれたり中止になる年さえあるからだ。端から見ていても、皆にとっていかにこの日が大事なのかがわかる。


引っ越してきてから、もう何度かこの口開けの日の浜の様子を見て来た。都会での仕事を定年退職した人達がこの地へ戻って来て海士になる人も多く、海士の年齢層も高い。しかし子供の頃から海に親しんで来た人達にすれば、勝手知ったる我が磯というところだろう。そういう海士さん達も年々と腕を上げ水揚げも増えてくる様子がうかがえる。写真は海女にデビューしてまだ2年目の女性で、昨年の口開けの日はまだ数枚のアワビを獲るのがやっとというところだったが、今年はぐっと水揚げも増えその嬉しそうな明るい表情で、海士さん達の雰囲気を和やかにしている。

そう、この素潜り漁は船に乗って海上から潜る人もいれば、磯伝いに歩いて海へ入り潜る人もいるのだが、終了時間間際に続々と大きな魚籠一杯にアワビを入れて磯へ上がってくる様子をみていたら、ちょっと自分も挑戦したくなった。素潜り漁はシュノーケリングとは違い、シュノーケル、足ひれ、そしてウェットスーツの着用は許されない。なので一回海底へたどり着くのにかなりの体力を使い、低水温に体温を奪われ、南の島でシュノーケリングする様に悠長に海に浮かんでいられないのである。カツカネイと呼ばれるアワビを岩から剥がすための重いバールの様な道具を持って、水中メガネと桶樽ひとつを頼りに海に潜ってアワビを獲る。泳げなくてもシュノーケリングやダイビングはできるが、素潜りはそうはいかない。組合員になったとしても、ん〜、やっぱり重労働だぁ。

2013年7月21日日曜日

名古屋日帰り

20日土曜日は愛知芸術劇場で綾戸さんのライヴ。近年コンサートは土、日に集中する上、開演時間も早く地方公演も日帰りが多くなった。新幹線のスピードもアップして、東京~名古屋間は1時間40分程度。僕の住む南房総、千倉町から東京へ出る時間よりも早く移動できる。そして今日も例に漏れず名古屋日帰りの行程である。ライヴ開演時刻は午後5時。午前11時の新幹線で名古屋へ向かい、東京駅には午後10時前には戻って来れる。ちなみに今日の僕の移動ルートは車で君津バスターミナルへ出て、そこから東京駅までバスで移動。帰りはこれを逆走する。朝8時半に家を出て深夜0時には家に到着。千倉町からも日帰りが可能なのだ。

名古屋と言えば鶏の手羽先や煮込みうどん、鰻等々美味しいものあって、ちょっとのんびりしたいところだがそうも言っていられない。しかし日帰りの良さもあって、泊まりだと翌日の移動で半日がつぶれてしまい、それを考えると夜の時間帯に移動してしまうのも悪くない。そんな行程にイベンターさんが気を遣ってか帰りに名物「天むす」を持たせてくれた。写真は新幹線の中で夕食に「天むす」を食すの図。

果たして東京~名古屋間にリニア中央新幹線が開通するまでこの仕事を続けていられるかはわからないが、その頃の日本のミュージシャンの生活はまた随分と変わる事だろう。青森まで夜行列車で演奏に出かけたのはあまりに遠い想い出である。僕らの世代は地方公演をのんびり移動する中、そこでミュージシャン同士の絆も深まったと実感するが、若い世代はそういう人との繋がりにあまり時間を割けず、生き方さえ変わってしまうのではと思うが、それは年配者の余計な心配だろうか。

さて、綾戸さんの15周年記念ツアーもあと東京でのライヴを残すのみとなった。今回のツアー、15周年記念にふさわしい内容となっていて各地の演奏も充実している。ツアー終盤となった今日のライヴはクワイアの参加もあってより濃い内容に。綾戸さんとはもう7年程の付き合いとなるのだが、演奏中初めてお客さんが総立ちとなってビックリ。確かにこのところショーの演出、構成、演奏全てが充実してきていると感じるところだが、この2年バンマスを務めてきて、こんな状況が生まれるとはなんとも嬉しい限り。東京ではWOWWOWの収録もありツアー集大成のライヴとなる。東京公演にはまだわずかながら席があるとのこと、興味のある方は要チェック!

2013年7月19日金曜日

こーぢ倶楽部

写真に一緒に写っているのは、元プロロードレーサー、相澤康司(旧姓福島)さん。僕は一年程前から、彼の主催する「こーぢ倶楽部」というアマチュアロードレーサー向けの自転車教室に1~2ヶ月に一度通っている。そして今日も久しぶりの受講!

彼はヨーロッパを中心に世界で活躍した知る人ぞ知る名ロードレーサー。兄の福島晋一氏も現役のプロレーサーでイタリアを中心に活躍中。康司さんのキャリアはネット上でも知る事ができるが、その個性的な走りは世界のレーサーからも注目を浴びるほど破天荒なスタイルであった。それは一人で逃げをうって何が何でも勝利をつかむという(ロードレースは基本的にチームプレイなのだが)無謀ともいえる走りで、日本人がヨーロッパでいかに勝利にからむかという試みをストレートに体現した希有な存在である。

10年ほど前だっただろうか?僕は日本で開かれる世界的レース「ジャパンカップ」で初めて彼を見た。レース序盤からアタックを決め逃げ切るという作戦にでた彼は終盤集団に吸収され勝利に結びつかなかったが、そのガッツ溢れる走りは印象的だったし観る者を興奮させてくれた。

それから何年か後、僕が富士ヒルクライムのレースにエントリーした際、レース前日のイベント会場の片隅で現役を退いたばかりの彼が、一人でロードバイクの乗り方についてレクチャーしている現場に出くわしたのである。その出で立ちは3本ローラーで両手放しをしながらゆっくりペダルを回し、理想的なポジションについてひたすら語っているというもの。何気ない動作だが、それを見て「何でこんな事ができるんだろう?」とうその曲乗り的な技にビックリしたのが妙に記憶に残った。

僕はロードバイクに乗り始めてから既に25年くらい時間が経っている。最初はレースに出たりする訳でもなく、自転車で長距離を移動できる事がただ楽しくてその魅力に取憑かれたのだが、その乗り方に関してノウハウも知らずただ自己流で乗っていただけ。ところがスピードの出る峠の下り道などでいつも恐怖心と隣り合わせで走っていたのである。この恐怖心はいつか克服できるものと思っていたが、何年経ってもそれは拭えず、それはきっと自分の乗り方に問題があるのだとわかっていても何もできなかった。

およそアマチュアレースに出るような人達は各地にあるクラブチームに所属して、先輩方からロードバイクの乗り方やレースでの心構えなど教わるものなのだろう。しかし個人でバイクに乗る限り、正しいロードバイクの乗り方など知る由もない。それは日本にロードレースという文化は無く、自転車に関してはママチャリが基本?といったベースしか無いのが実情。近年教則本的書籍が出回るようになったが、所詮文章での説明であってどう身体にフィードバックしていいか分からない。

ある日、ネットで康司さんの情報を何気なく追っかけていたら、数年前からロードレーサー向けの教室をやっているという。あの富士山で見かけた印象が強く残っていたので興味を惹かれ、その門をたたくことに。実際彼に会ってみると、世界で活躍したアスリートなのにざっくばらんで偉そうな所が無く、その清々しい出で立ちは一流のアスリートならではと感じさせられる。なんだかミュージシャンに通じる気質の持ち主というか、妙に気が合ってしまった。時には自分のライヴも聴きに来てくれる。

レクチャーでの彼の解説は決して流暢ではないが、こちらもセンスを尖らせながらその意図を汲んで体得していけば、そのひとつひとつが僕にとって新鮮な体験であった。数回受講すれば解るものとたかをくくっていたが、教えてもらうテクニックを身につけるには今まで使った事の無い筋肉を発達させなければレクチャーの意味を理解できないといった具合で、そう簡単に身につくという訳ではない。そしてあっという間に一年が過ぎ、今もまだ成長中というところ。

彼のレクチャーの主旨は、プロのレーサーも初心者の乗り手も、同じ特殊な構造をしたロードバイクという自転車に乗る以上は、運動の強度こそ差はあるものの、安全に自転車を乗りこなすというテクニックに差は無いはずだという事。その意味はレクチャーを重ねるほど身に染みて解ってくる。

近年、自転車は未だかつて無いロードバイクブーム(ピストバイク含め)。一時は絶滅危惧種とさえ言われたドロップハンドルのレース用バイク。都会ではマナーの悪い乗り手が目につくばかりか、その事故の多さは深刻な問題でもある。サイクルイベントも各地で盛んに行われているが、必ずと言っていいほど事故がつきまとう。時には死亡事故まで起きているのである。何十万円もするバイクを手に入れたはいいが、ママチャリに乗れるという次元と同じく、ロードバイクにも上手に乗れてるなんて思ったら大間違いである。あまりにその乗り方に無頓着ではなかろうか?所詮日本ではママチャリこそが自転車文化。もしもロードバイクに乗って不安があるのなら、康司さんのレクチャーを一度体験してみたらいいと思う。

余談かもしれないが、現在日本人で世界のレースシーンで活躍しているのはわずか数名。現在ツールドフランスを走っている新城幸也選手は康司さんの弟子的存在。前述の記事で幸也選手と一緒に写っている写真もこーぢ倶楽部のイベントでの一コマ。お兄さんの晋一選手やサクソティンコフの宮澤崇史選手も皆仲間で、同等の実力の持ち主だ。彼等に続く若手選手で世界へ飛び出している人は少なく内向きな日本のレース界。今世界で活躍するために必要な「力」とは何であるかを知っている先輩に教えを請うのも一手ではないだろうか。

2013年7月16日火曜日

祭、終了

 週末、天候にも恵まれ千倉町の祭礼は例年通り執り行われた。地区ごとに青年会が主催する祭は前述した通り、2週間程前から準備も本格的になり、毎夜三番叟、お囃子の稽古、そして飲み会の回数も増え徐々に祭ムードは高まりながら本番を迎える。人手不足は各区かかえる問題だが、この時期だけ町を離れている家族が戻ってくる家庭も多く、当日は町全体がにわかに賑やかになる。

 
我が区では祭の始めに三番叟の奉納があって、その後山車の曳き回しと神輿グループに別れて町へ繰り出す。今年は2日間とも三番叟の演奏に携わりながら、担ぎ手の少なくなった神輿を手伝った。

山車は青年が中心となり多くの区民が参加して町中をゆっくりと曳き回し、子供達も山車のタイコをたたいたり、休憩場所では女性陣が踊りを踊ったりと区民全体で祭を楽しむ。

 一方、我が区の神輿は子供神輿と呼ばれる小さな神輿。子供が少なくなった今、神輿は壮年主催で女性陣を巻き込み少人数で、各家の軒先へ出向いて神輿を揉んでは寄付をいただきながら区全体を練り歩く。数件の軒先ではお酒やつまみ、食事なども振る舞われ、普段歩かない家並みを巡りながら地域の情緒をふんだんに感じることができる。が、写真を見てもおわかりの通り「えっ祭?」というくらい小ぢんまりした神輿の風景、それでも男数名で担いでみればかなりの重さ。これを一日中担げば肩、腰と身体の負担も大きく、気合いを入れてみるものの二日間で身体はかなりボロボロとなる。

最終日の夜は隣接区との合同祭となり山車を広く曳き回し、一カ所に集合して祭のピークを迎える。まあこの頃には身体の疲れもピークなのだが。それでも打ち上げの宴会は深夜まで続き、翌朝には片付けが待っている。今年は月曜日が祭日だったため、仕事が休みの関係者も多く午前中には片付き、町はいつもの風景へ戻る。そして夜には花納め。祭の収支報告や反省会の主旨でまたも宴会となり、いよいよ祭も終了となる。

祭の内容は毎年同じように繰り返されるのだが、人の関わり方は年々変化していて、祭の雰囲気は年ごとによって変わってくる。今年は青年部の若い衆がパワーアップしていて、祭終盤に大変盛り上がった。これは人口が減少していく町の中でとても心強いことで、今後の我が区の明るい未来を期待させてくれて、今年の祭の大きなポイントに思えた。

連日の準備から祭当日と慌ただしく、飲み過ぎも加えてすっかり身体も疲れてブログのアップもままならないほどだったが、また日常へと戻れば、祭の出来事は一年の大きなアクセントになっていると感じるのである。

2013年7月8日月曜日

梅雨明け

昨日、博多から広島へ移動してもやはり雨が降っていて、関東地方の梅雨明けの知らせを聞いてもピンとこないまま東京へ戻った。ここ南房総に着いたのは深夜だったので、空模様もわからないまま。ただ土日にかけて街中の通りに提灯が飾られ、お祭りが近づいていることは感じることができたが。

ブログアップなどして眠りについたのは、もう外がぼんやり明るくなってから。 一眠りして目が覚めると外が異様に明るい。眠たい目で窓の外を見ると真っ青な空が広がっているではないか。空の青さは梅雨の合間に晴れる青空とは明らかに違って、突き抜けるような青さである。寝不足ではあるものの起きたら急に元気になり、なんだかいろいろやる気が湧いてくる。不思議なものである。一気に梅雨のうっとおしい感覚から解き放たれた感じがしてテンション上がりまくり。南西の海風が気持ちよく吹いている。朝から家中の窓という窓を全開して、家の中に溜まった湿気を一気に吐き出したい。勢いあまって掃除、洗濯と活動開始。

この青空に誘われて午後からサイクリング。寝不足もあってパワーは出ないが、気持ちよく走る。旅の疲れも徐々にほぐれてくる。海辺では海の家の準備が進んでいる。空が青い分、海の碧さも深い。思わず所々で止まっては夏の空気と風景を享受する。気温が上がっても海水温が低いからか(その逆なのか?)、海岸沿いでは霧がかかっている場所もある。しかし全ての風景が梅雨場のそれとはすっかり変わって見える。季節の変わり目がハッキリ分かるのは田舎で生活しているせいかな。

畑の夏野菜はまだまだこれからという感じだけれど、今年はキュウリの勢いがいい。たった二株しか植えていないのに、毎日このくらい収穫できる。他の野菜もこれからどんどん実をつけるだろう。

そしてこれから一週間はお祭り一色となり、祭り当日まで濃〜い日々が続く。そしていよいよ夏本番へ突入、ここ南房総の輝きが増す季節。暑く厳しい夏となっても、所詮夏は短い。いかにこの短い夏を楽しめるか、身体をアクティブにチューニングしておきたいところである。

七夕の夜に

7月7日朝、博多のホテルを出て今日は広島へ。国際会議場フェニックスホールで綾戸さんのライヴ。このホール、ひょっとして初めてかも。ステージはバンド演奏もまとまっていい感じ。ちょっとお客さんが少なかったものの、アンコールではスタンディングオベーションとなり自分も役目を果たした感じ。

さて、最近のコンサートは土日に集中する傾向が強く、しかもその開演時間が早い。今日も16時開演、演奏が終わったのが18時で外はまだ明るい。今日は博多から広島へ移動してきてそのまま東京戻りである。広島空港最終便の飛行機で羽田へ。ん〜、広島でお好み焼き食べて帰りたかったなぁ、と思いながら羽田には午後10時過ぎに到着。

預けた荷物を受け取ろうとベルトコンベアへ向かうと、なんと岩﨑宏美さんに遭遇?声をかけられてビックリ。どうやら同じ飛行機に乗っていたらしい。何年ぶりの再会だろう、今でも変わらぬ活躍ぶりはいろんなところで知るところだが、一緒に仕事でもしないかぎりなかなか会えないし、元気で変わらぬ姿を見たらとても嬉しくなった。ん〜、今夜は七夕?

左から小山彰太、僕、高橋友己、元岡一英、米木康志
実は今夜、もう20年以上前に関わっていた「ザ・北海道バンド」のリユニオンライヴが西荻窪のアケタの店で行われていた。この北海道バンド、北海道出身のメンバー4人(高橋友己 sax. 元岡一英 p. 米木康志 b. 小山彰太 dr.)でスタートしたジャズバンドである。80年代後半だったか、ひょんなことから彼らのライヴに誘われ、以来メンバーとして参加。CD3枚をリリースして全国をツアーもした。そのドラマー小山彰太氏が出身地の札幌へ帰ってしまうという。そこでこの再会ライヴが実現したのである。それも七夕の夜に・・・。

残念ながら僕はライヴに参加できなかったが、このメンツが集まる機会はこの先ますます少なくなってしまう。なんとしてもみんなと会っておきたいと思い、演奏はもう終わっている時間だが、荷物を受けとって急いで西荻に向かった。電話で僕が行くことを知らせておいたのでみんな呑みながら待っていてくれた。

彰太さんは山下洋輔トリオで活躍、以後板橋文夫トリオなどジャズ界のなかでもアヴァンギャルドなシーンで演奏してきた人である。聞けば御歳65、メンバーも皆60を過ぎているという、みな相変わらず元気そうでなにより。電車の無くなる時間までしばし懐かしい話に花が咲いて盛り上がり、また来年にでも、今度は5人で音を出そうと話して別れた。

家に着く頃にはもう午前3時、今年の七夕はとてもなが〜い一日だった。

2013年7月5日金曜日

行きつけの・・・。

今夜は博多に来ている。

昨夜は千葉ローカルの南流山で高橋下駄夫主催のラテンセッション。一昨日、100坪の畑の草刈り、耕耘で疲労したまま臨んだライヴ。ここ数日の湿気で楽器の響きも鈍く力が入ってしまうものの演奏は盛り上がり、今日はさすがに手が腫れぼったい感じ。全身の疲労を和らげるべく午前中は自転車を1時間強ローラーで。しかし調子にのってインターバルを交えて終了。おかげで全身血の巡りがいい。

そして明日の福岡でのライヴに向け夕方の飛行機で博多入り。ホテルに着けば先着のスタッフはクモの子を散らした様に街に消えてゆき、バンドメンバーは明日到着なのでしかたなく一人博多の街に繰り出す。

博多の気温は夕方なのに29℃と高く、ちょっと蒸し暑いが意外と過ごしやすい。博多には友人も何人かいるのだが、わざわざ足労願うのも気が引けて、長年行きつけ(と言っても数年に一度しか訪れないが)の屋台にふらりと出かけてみた。店はまだ時間帯が早いのかちょうど席が埋まるくらい。深夜には行列もできるこっそりと人気の店である。ここは天神の大通り沿い、雑踏の騒音にまみれながら街の灯りも煌々とするなか、なんだか妙に落ち着いてしまうから不思議である。これこそが博多ならではの風情なのか。

一人で来ている常連さんもいて気楽に呑めるのがいい。おでんに串焼き、海産物からラーメンまで何でもござれ、どれも酒飲みには触手をくすぐるものばかり。ビールに始まって芋焼酎をあおれば一人っきりでもご機嫌である、ついつい長居してしまった。〆に食べたラーメンがあまりに美味くてたまらず「替え玉っ!」 嗚呼、今朝のトレーニングの消費カロリーは・・・?

しかし、日本各地に行きつけの店というのがあるのだが、数年振りに訪ねたら閉店ってこともあれば、景気良く暖簾分けしたものの主人が居なかったりと、長年のキャリアの中でいつ行っても変わらずやっているというお店は徐々に減ってくる。そんな中、いつ行っても変わらぬ顔でやっているということ自体が素敵に思え、そんな当たり前なようで当たり前でないことがなんともありがたいと思う今日この頃である。

2013年7月2日火曜日

祭、そして少子化

今年も例年通り7月第2週の土、日に千倉地区の祭が行われる。ここでは祭のことを「まつり」と言わず「まち」と呼ぶ。現在綾戸さんのツアー中だが、不思議な事にこの週末だけはコンサートが無い。よって祭に全面参加できるのだが、先週から既にその準備が始まっていて祭当日までいろいろと忙しい日が続く。

以前のブログにも何度か書いてきたが、我が区には千葉県の無形文化財の指定を受けた三番叟保存会がある。三番叟は祭礼の始まりに神社に奉納する芸能である。三番叟の役者3人は通常小学校4、5、6年生の男の子が担当し、一度選ばれたら3年間通して役を勤める。そして歳ごとに役回りは大きくなる。ここ南房総は少子高齢化がどんどん進んでおり、今年の三番叟は4、5年生の子供が不在。3年目にあたる6年生の子が大役を演ずるのに、急遽他の2役を大人が演じることとなった。そして来年この6年生の子が小学校を卒業すると、数年の間4、5、6年生の子供はこの区に居なくなってしまう。三番叟存続に関してはまだ論議が必要なところだが、現実問題は大きくのしかかる。

年に一度の祭礼だが、移住した僕にとっては地域の人達と一番密接に関わる時期となる。三番叟保存会のメンバーとして鼓を叩かせてもらっているが、この事こそ奇跡。どう考えても他所から移り住んだ人間が地域の伝統芸能保存に関わることなどあり得ないのではないか。それを年々強く実感するのである。しかし人口が減少していくのは明らかで、祭全体の運営も年々大変になってきているのも事実。ちょっと大げさかもしれないが祭を通して日本の抱える問題まで見えてくる。

祭は区ごとに多くの人達の協力で実現するわけだが、そこに積極的に協力する事で自分のことを認識してもらっている部分は大きく、おかげで移住者であるにも関わらず多くの人に親切に付き合っていただき、人間関係も広がった。田舎に住む醍醐味は風光明媚な土地に暮らすという事だけではなく、やはり地域の人と関わってこそ。そして田舎の良さをより深く実感できるのだと思う。

引っ越してきた当初は祭に参加すること自体新鮮な体験で、自分が祭をどう楽しむかを考えたものだが、この数年は区民の人達にいかに楽しんでもらうかと考えるようにもなった。それは祭が当日の2日間ということではなく、それまでの毎日の準備そのものが「祭」なのだから・・・。